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『おおかみこどもの雨と雪』及び細田守考 [レビューなど]

昨日観た『おおかみこどもの雨と雪』を扱ったシネマハスラーのポッドキャストを聴いた。(以下敬称略)
リスナーの評価は7(賛)3(否定)ぐらいで、好評不評は極端に分かれたらしい。
宇多丸はほぼ全肯定的な評価で、特にアニメーションならではの長いスパンの成長の描写と、きめ細かいディテールを賞賛していた。
肯定派の評価ポイントは、
「絵がきれい」
「きめ細かなディテールが豊かな奥行きを感じさせる」
「主人公に共感し、感動した」
等々。
かたや否定派のマイナスポイントは、
「物語がご都合主義」
「主人公(母親)が完璧すぎ」
「物語が説明不足」
等々。

自分は否定派に入る。
確かに本作はこの尺のアニメとして良くできていると思う。
絵の美しさ、おおかみこどもの可愛らしさ、四足歩行の動物視点での疾走描写、台詞以外で情報を提示する手際のよさ、日常的なアクションの自然さ、声優陣の好演…どれもアニメとしてかなりの出来映えであり、否定派の舌鋒が鋭くなるのも、この完成度の高さを反映しているようだ。
しかし、それらは「器」である。
どんなジャンルであろうと、最終的に問われるべきは料理(内容)であって器ではない。
自分は本作を見終わってほとんど感情が動かず、確かな技術で作られた精巧な器としか感じられなかった。
物語として奥行きがないとは思わない。しかし主題に柱がないのだ。作劇として必須の背骨が感じられない。

否定派の「ご都合主義」「母親が完璧すぎて鼻につく」といった意見を、宇多丸はたしなめる。
母親が移住先の村で受け入れられる段階も、彼女が周囲の理解など得られようのない子育ての中でも病んでいる場面もきちんと描かれていると。
本作は言葉によらず、絵の中で説明がなされる作品であり、アニメでは珍しい引きのショットも目立つ。
確かに自分も視覚的な気配りは感じたつもりだが、それでも説明不足との感を拭えなかった。その理由をこれから述べる。

本作の粗筋を知り、観終わってより明瞭に共通点を意識した作品がある。『誰も知らない』『空気人形』などの是枝裕和の監督デビュー作品にして江角マキコの映画デビュー作品、『幻の光』である。
粗筋としては、二人めの子供が生まれたばかりの状況で夫が原因不明の死を遂げ、残された母親は能登の漁村へ嫁いでいく。そして時が流れ…というもの。
台詞は少なく、色と光の抑えられた静かな場面が続く。
『おおかみこどもの雨と雪』のオフィシャルブックの貞本義行(キャラクターデザイン)のインタビューによれば、本作の設定と家族構成を描くにあたってこの『幻の光』を意識したそうだ。
また宇多丸は「引きの画」の多用など画面構成の類似点にも触れている。
さて、このように共通点の多い両作品だが、同様に配置されたラストのクライマックスを経た観賞後の感覚は大分違った。(当然、これは自分の所感にすぎないが)
『幻の光』のネタバレになるが、優しい人々に囲まれた穏やかな暮らしの中でも主人公は亡き夫の面影を忘れられない。日々の暮らしのなかで一人になったとき、ふっと不安げに遠くを観るような仕草をする。
死因が判らないので「ひょっとしたら彼は、自分との生活から逃げるために自殺のかもしれない」という疑念から、自分が幸福だと感じていた日々に確信が持てず、故に現在の幸福に対しても及び腰になっている。
ラストで彼女は現在の夫に対して「こんな自分に愛される資格はない」と言って泣く。
しかし夫は、そんな彼女の葛藤に気付いていた。その上で「それでもそんな君を愛している」と告げる。
それまで朴咄と描かれていた夫の、秘めていた深い愛情が最後に明かされる。

翻って『おおかみこどもの雨と雪』でもクライマックスで母親は自分の心中を印象深い言葉で吐露する。しかし、伏線も取っ掛かりもないので、観る側としてはやや面喰らってしまう。
終盤で唐突に炸裂する、彼女の子供への執着を裏付けるものが提示されないので、その心情は観ている側で埋め合わせるしかない。
それが「母性本能」とか「子供を育てればわかる」とか「言葉にするようなものじゃない」では、それはあまりに無責任じゃなかろうか。
この作品は一事が万事この調子、といって良い。作中で出現する「父親はどうして死んだのか」「どうして地元住民と仲良くなれたのか」「なぜ狼は人間から嫌われるのか」といった疑問に対して答えは示されない。「でも、現実ってそういうもんでしょ?」というのがこの作品にとっての正答なのかもしれない。

細田守の前作『サマーウォーズ』は、「なんだか判らないけどとにかくすごい大家族が、身から出た錆として発生したよく判らない仮想世界の危機を、団結の結果なのかよく判らない経過を経て救う」というわかったような判らないような話だった。
予め「あるべき大家族」「よくある感じの仮想世界」というお約束の上でハイテンションに物語が進行していくので、それらのフォーマットに適合できないと観ていて苛立ちがつのった。
本作でもその基部構造は継承されており「あるべき母親像」「あるべき幸福像」「あるべき社会像」の上で、それら前提への疑問を遮断したまま物語は美しい絵とともに滑走していく。
そこには「作り手がどうしても訴えたいこと」は感じられない。「そういうお話」なので感動のしようがない。
「器のみ」「骨格がない」「説明不足」と思う所以である。
そのような、言わば「借り物作劇」の上滑りぶりは、言葉による説明を省いている分、前作より悪化している。
この種のテストのような作品は、前提に同調できない者にとっては大変居心地が悪い。
しかもテーマが「家族」や「親子の情」といった逃げ場のない普遍性である場合、逆に感動できない方が後ろめたさを感じてしまう。

宇多丸は、
「公共のためになる作品を作るのが自分のモットーである」
という細田の心構えを称賛する。
細田作品に対し強い拒否反応を示しがちな否定派の心情を
「細田の作風である健全さ、世界への肯定感への反発ではないか」
と仮定した上で、
「でも、そんなに世界を肯定的に描くのって悪いか?」
と問う。
ならば、借り物の道徳観念を示唆するのではなく、自分が強調したい「大切なこと」を自分の言葉できちんと提示すべきではないか。
そもそも細田の「心構え」とは、映画監督というよりは職人、いや技術者のそれではないのか。
つまり「公共」の形が変われば、作品の主題も変わるわけだ。それはもはや主体性を持った個人の表現活動とは呼べまい。
表現活動云々に限らず、知らず知らずのうちに悪意に荷担したくなかったら、また本作の主人公のように大切な人を守りたかったら、「健全」だの「公共のため」だのといった言葉は真っ先に疑った方がいいと思う。

細田作品への拒否反応とは、提示された主題への好き嫌いといった嗜好ではなく、このような「あるべきもの」を前提とした表現から漂う同調圧力を気持ち悪いと感じるかどうかの違いであろう。
この手の作品がよく判らないまま持て囃され、細田が「日本を代表するアニメ監督」とされている現状そのものを、自分は気持ち悪いと感じる。
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虹の母

通りすがりの者ですが、突然失礼致します。
今日TVで放映されていたおおかみこどもの雨と雪を見て、細田守監督は合わないなーと思い、他の方の感想を探していたところ、このブログに辿り着きました。
TVで見ながらずーっと、ほんとに薄っぺらいなー、浅瀬でちゃぷちゃぷしてる感じだなー、と思っていて、でも適当にしか考えてないので何故そんな気持ちにしかなるのかはよくわかっていなかったのですが、このブログの意見のおかげで何となくわかりました!有難うございましたm(_ _)m

ちなみに、花が理想的な母親過ぎる、という否定派の意見については、本当に理解出来ません。
彼女のどの辺りが理想的だったのか…子供を家に閉じ込め、社会での振る舞いを教えず、山で生きる方法も教えなかった。子供を自立させる気などなかったので、しょうがないから子供達は学校や山で自ら学ぶしかなかった。そういう風にみえました。
なので、私は彼女に理想的な母親を感じることは全く出来ませんでした。人の感じ方って、本当に不思議です。
by 虹の母 (2015-07-11 01:41) 

クロヒコ

虹の母さん

はじめまして。返答遅れて申し訳ありません。
この作品は俗に言う「オタク受け」しかしない作品の代表例だと思っています。
現実問題や日常を描いていても、その取り上げ方の陳腐さ(この場合はいい人だらけの田舎の人々)や不自然さ(巨大な獣の死骸を無造作に一般ゴミの収集車に入れる)、無神経さ(素手で鍬を握るなどの基本的誤解に基づいた農作業描写など)が絵柄や台詞、動きといったハード面への愛着からスルーされてしまい、数の上では広範な支持であっても実態としては内輪受け、という限界が露呈しています。
仰るとおり「理想的な母親像」という意見は自分にとっても不可思議で、現実問題を咀嚼した上での評価とは思えません。
もっとも、これは母親だけの問題ではなく、ろくな経済的基盤も持たないのに避妊しなかった父親に根本的な原因があるとも言えそうです。
すると本作は初めから構造的に理想化できる要素に乏しい物語と言えるかもしれませんね。

長い本文に目を通して下さり、ありがとうございました。
また、過疎ブログ主として、賜った過分なお言葉にも恐縮するばかりですm(_ _)m

by クロヒコ (2015-07-27 01:51) 

メカプリン

はじめまして。

毎回、細田作品には「モヤモヤとイライラが残る」という感覚に苛まされれており、自分なりに彼の作風を分析している中で、偶然クロヒコさんのブログを拝見しました。
ネットで様々なレビューや評論を見ましたが、本ブログの批評が一番共感と納得ができました。
とくに「無責任」という言葉が、細田監督の作風や辻褄に関する価値観を的確に表現している感じがしました。

本作「おおかみこども」では、細田監督の子育てへの「憧れと理想」が描かれているということでしたが、恐らく花に、「モデルとなった母親(実在も架空も含めて)」は居ないと思っています。
(監督自身の母親すら投影されていないのではないでしょうか)

花というキャラクターを本当に「空想だけ」で仕上げてしまったことが、現実的な破綻を引き起こしている要因だと思います。

但し、私には一見「悲惨」にすら見えてしまう花が、本当に細田監督にとっては「理想的」だったのかもしれません。
以下の、新作の「バケモノの子」の公式サイトにある監督インタビューでの細田監督の以下のコメントが、そのまま本作の花と雨の関係性にも当て嵌る感じがしたのです。

『子どもというのは親が育てているようでいて、実はあまりそうではなく、もっと沢山の人に育てられているのではないかなという気がするのです。父親のことなんか忘れて、心の師匠みたいな人が現れて、その人の存在が大きくなっていくだろう。そうしたら、父親、つまり僕のことなんて忘れちゃうかもしれない(笑)。それが微笑ましいというか、それぐらい誇らしい成長を遂げてくれたら嬉しいなということを自分の子どもに対して思うのです。』

この考え方でいくと、細田監督が花の立場なら、「先生(キツネ)」の意思を受け継いでオオカミとして生きる道を選んだ雨を「誇らしく感じる」ということになります。

よほど性格破綻にも感じられるコメントだと思いますが、恐らく細田監督の上記の価値観と感性が「共感できる人」または「気にならない人」が、本作に「感動できた人」なのだろうと、今回思いました。

あと個人的には、公式ポスターのイラストから大きくかけ離れた、「アゴの骨がないカエル」のような劇中の花の顔にもビックリしました。
by メカプリン (2015-09-06 00:09) 

クロヒコ

メカプリンさん、はじめまして。

母親のモデルがいないのではないか、との指摘は同感です。「こういうの、いいよね?」という上目遣いのノリを感じてしまいます。
また「バケモノの子」のインタビューのくだりは興味深く拝読させていただきました。
こちらは観ていませんが、あらすじを聞いた限りではご都合主義が加速しているような印象です。
やはりこちらも「こういう感じの話を作りたい」という企画が先に在って、現実と照らし合わせて説得力を持たせる、という摺り合わせが為されていないようです。
主張ではなく、はじめから共感を前提とした表現がさらにエスカレートしているようでやはり気持ち悪いです。
主体性を棚上げした表現は、仰るとおり「無責任」ですから。

返答がたいへん遅れてしまい申し訳ありませんでした。
過疎ゆえの粗相ご容赦くださいm(_ _)m
by クロヒコ (2015-10-25 01:04) 

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