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『スーサイド・スクワッド』残念レビュー [レビューなど]

 DCコミックスの悪役ばかりで構成された特殊部隊「スーサイド・スクワッド」の活躍(?)を描いた、ファン待望の映画。
 …のはずだったが、蓋を開けてみればアメリカ万歳!ハリウッドアクション万歳!の薄っぺらな消費アクションだった。予告編が良かっただけに失望も大きかった。
 幸い原作コミックを2巻まで読んでいるので比較を交えてキャラクター毎に考えていきたい。(いろいろネタバレ含みます)

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男の沽券は股間に在り~『最後の一本~ペニス博物館の珍コレクション~』『悔やむ人たち』レビュー [レビューなど]

 http://saigo-no-ippon.gaga.ne.jp/

2012年製作のカナダ映画『最後の1本~ペニス博物館の珍コレクション~』の舞台となるペニス博物館はアイスランドの港町フーサヴィークにある。
 館主のシグルズル・ヒャールタルソン(略称シッギ)氏は、中学校の校長をしていた33才(!)の誕生日に同僚たちから牛のペニスをプレゼントされて以来、アイスランド及び近海に生息するほぼ全てのほ乳類のペニス(及びその一部)をコレクションするに至った。
 しかし、この博物館にはまだ決定的な展示物が欠けていた。そう、それは他でもない人類自身の男性自身であった。

 ヒトのペニスをどうやって得るか?簡単そうに思えて実は難しい。
 まず、アイスランドでは(他の国でもまあそうだろうが)当人の生前の同意がない限り身体の一部を譲渡出来ない→アイスランドは人口30万人に小国である→「ペニスを譲渡した」なんて噂は一気に広がってしまう!
 それでもいいよ、という剛の者はいるのか?いたのだ。それは1945年に人跡未踏であったアイスランド島中央部に車で到達し、さらに開拓したルートを用いて観光ツアーを確立した国民的冒険野郎、パゥットル・アラソン氏であった。
 枕を共にした女性達をマメに記し続けた(ただしプロは除く)専用ノートが自慢の、自称300人斬りのプレイボーイでもあった彼は、博物館がオープンして間もない1996年、自分が死んだらペニスを博物館に寄付すると名乗り出た。(勢い余ってペニスの大きさを記録しようと石膏取りを試みるも敢えなく失敗)

 時は下って2001年、博物館の噂を聞いた一人のアメリカ人が人類初のペニス展示に名乗りを上げた。カリフォルニア在住のビジネスマン、トム・ミッチェル氏である。
「エルモ」と名付けた己のペニス(18㎝!)に絶大な自信を持ち、こちらも勢い余って生前にペニスを切除して寄付しよう、とぶち上げる。
 このトム氏の登場から映画は俄然面白くなってくる。まず、彼の目の真っ直ぐさがヤバい。己の道を迷わず進む視線ではない。相手に己を認めさせるための強い狂気を帯びているのだ。事実彼の「エルモ」に対する執着はただ事ではない。シッギ館長に1日3,4通のメールを送り、亀頭に星条旗のタトゥーを入れ、最新の保存技術「プラストミック」(「人体の不思議展」で使用されていた)の技師であるイタリア人に渡りを付け、展示ケースの発注に工房へ出向く。棹を扱うだけに破竹の勢いである。
 だが館長としては堪ったものではない。とっとと寄付して貰って後の展示は自分に任せて欲しい、と酒の力を借りてカメラの前で愚痴る。そんな彼の苦悩を余所にトム氏は「エルモ」にサンタクロースやリンカーンのコスプレを施した画像を送りつけ(これだからアメリカ人は…)、「エルモ」を主人公にしたヒーロー漫画の計画をイラスト入りで熱弁、「人類最初の展示ペニスを見た人が自分自身について考えるきっかけになってもらえたら」とさえ語る。何が悲しくて他人のチンコ見て我が身を振り返らにゃならんのだ、と誰もが突っ込みたくなるだろうが、彼の眼差しはいつも通り真剣そのものである。
 
 対する元冒険野郎アラソン氏は、歳を重ねた今となっては過去の自慢話が生き甲斐の可愛らしいおじいちゃんで、シッギ館長も出来るなら彼のペニスを飾りたいと思っている。しかしこちらには問題が。
 アイスランドには「法的に適正なペニスの大きさ」が存在する。ロングロングアゴウ、かつて旦那の短小ペニスに業を煮やした妻が領主に離縁を申し出た。
「この人は親指3本ぶんの長さしかない。1本ぶんは皮膚に、1本ぶんは陰毛に隠れて、残りの1本ぶんしか入らない。自分の中で暴れ回るにはせめて親指7本ぶんの長さは必要だ」
 かくして女性の親指7本ぶん、現在の世界的単位に直すと12㎝強が「法的な基準」となったとさ。
 さて、男性は老いるとちんちんが萎む。これは避けがたい宿命である。かつての国民的プレイボーイも近年はその辺を悩んでいるという。石膏取りが敢えなく失敗したため、彼のサイズはわからない。こればっかりは現物が来ないとわからないのである。
 シッギ館長が力説するに、世界初のヒト・ペニスが法的基準を満たしていないなど、あってはならないこと。(らしい)

 方や縮む一方の男性(ダブルミーニング)の死を待つ他なく、方や自慢ばかりでさっぱり現物を送ってこない。シッギ館長自身も老いていく。大きな静脈瘤が見つかり、己の寿命を意識しはじめた彼は、ついに自らの死後ペニスを寄贈するという悲壮な決断を下し、文書を作成する。
 ヒト・ペニスの展示はペニス街道まっしぐらであった彼にとって、生涯で叶えたい二つの夢のうちの一つだった。(もうひとつはラス・カサスの著作の翻訳。これは叶えた)
 夢の実現を自らの目で見ることを諦めかけたその時、アラソン氏の訃報が飛び込んでくる。
 葬儀が終わり、青いセロファン紙で華々しくラッピングされた容器を開け、処理を施し計測するシッギ館長。
「法的な長さを満たしていました。今日は人生で最高の日です」
 と満面の笑みを浮かべる。
 そしてヒト・ペニスのお披露目パーティー。シッギ氏は館長の座を息子(本物)に譲ることを宣言。息子へムスコをバトンタッチし、貴重な英知が世代を越えて受け継がれていく事を示唆して真実の物語は終わりを告げる。

 さて、気になるのはトム氏だが「ここ数年で多少落ち着きを増した」と語る彼は慌てず、騒がず、「エルモ」を世界一有名なペニスにするため、例の漫画の制作に力を注いでいるという。(エンドロールで悪夢のようなイメージイラストが披露される)
 彼は己のペニスを切除する理由を問われて、本音を漏らす。
「私は3度離婚した。女たちは私を利用し、捨てていった。あくまで私から見れば、の話だがね。もう疲れたんだ。性欲から離れた暮らしがしたいんだ」
 それはそうなのかもしれない。でもそれは無理だろうなあ、と観ている全ての者は思う。何故なら彼は「エルモ」を己の分身と定義しているから。彼の決して満たされることのない、渇ききった自己顕示欲の形代(かたしろ)だから。
 冒険野郎アラソン氏が己の価値を考える前に飛ぶ男だとしたら、トム氏は己の価値を文句の付けようがない行動で認めさせる男である。現に有能なビジネスマンらしく、身なりはいいし瀟洒な自宅を構え、牧場さえ所有している。だが、何かと比較しなければ気が済まないような乾いた自意識を抱え続けるサイクルは、ある種の悟りを得るまで決して止まることはない。彼は聡明だからそれに気付いている。しかし認めることが出来ないのだ。だから己の分身と縁を切りきれない。
 己の男性自身(ダブルミーニング)を切り離すことで人生をやり直せるかも、という思想は男性の中に根強いのかもしれない。
 
 そこで思い出したのが2010年に製作されたスゥエーデンのドキュメンタリー映画『悔やむ人たち』(日本公開時のタイトルは『悔やむ人々』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%94%E3%82%84%E3%82%80%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1
 男性→女性→男性と性転換を繰り返した2人のトランスセクシュアルの男性、オルランド・フェイギンとマイケル・ヨハンソン(共に仮名)の口から語られる彼らの半生記である。
 1960年代に女性へ性転換し、モデルとしても活動し当時センセーションを巻き起こしたフェイギン。いまなおすらりとした華奢な体型を維持し、真っ赤なコートを着こなす。その物腰は自信に満ちている。
 自分の人生に悔いはない、と言い切る彼は何故再び男性に戻ったのか。
「私が若かった頃、男性を好きになるには女性になるしかなかった」
 現在は人権先進国であるスゥエーデンであってなお同性愛は当時(1960年代)の倫理で許されるはずもなく、少年時代に家を出て体を売っていたことさえ赤裸々に語る。紆余曲折を経て、本当に好きになった男性(恐らく結婚当時は童貞)と11年間夫婦として暮らしたと言う。
 彼にとって幸福だった日々は、夫の激怒によって破られた。
「君は自分の事を女だと言ったね。だが君は男じゃないか。僕の時間を返してくれ!」
 フェイギンは首を切りつけられ、その傷跡を見せる。
「それがきっかけ、って訳じゃないけどね」
 気丈な彼は涙を拭う。
 もう一人のヨハンソンの半生は対照的だ。
「僕は男性に性的興味はなかった。あまりにも女性に相手にされなかったから、女性になろうと決心したんだ」
 モテないならいっそ異性になればいい、というコペルニクス的発想の転換だが、かくいう自分も学生時代、女性の美しい髪に憧れて長髪にしたことがある(もちろんその前後で超絶モテない事に変わりはなかった)ので程度の差はあれ彼の気持ちはわかる、ような気がする。
 ヨハンソンの視線は一点に定まらず、常に泳いでいる。常に体のどこかを不安げに動かす仕草からも危うい精神状態が見てとれる。
 かつての写真を見るに明らかにモテの対象外と思われる、特徴の無い顔と弛んだ肢体は性が変わってなお驚くほど変わり映えせず、印象の薄さはそのままにオッサンからおばさんへスライドしただけだった。性的意識の範囲から遠く離れるほど、性差もまた曖昧になって行く。
「女性になったからといって、何も変わりませんでした。誰からも相手にされない。それを自覚して、失望し、また男性に戻りました」
 方や、美しい服装を好み男性を愛する自分は女性である必要はない、と胸を張って生きるフェイギン。 
 方や、自らのコンプレックスを決定的な自己証明を切除することで克服できる、という期待を完膚なきまでに叩き潰されたヨハンソン。
 お互いの辛すぎる、一人で抱え込むには重すぎる過去を語った後、彼らは泣きながら抱擁を交わす。あたかも互いを気遣う事で過去の自分をも慰めるかのように。
 
「最後の1本」に話を戻せば、皮肉なことに3度の離婚歴を持つトム氏の心境に近いのは全く異性との関わりを築けなかったヨハンソン氏であろう。
 そこに通底しているのは自身への不安から、アイデンティティーを形の無い「男(女)らしさ」に託してしまう脆さではないか。
 彼らが集団行動がとれるほど如才なければ、コンプレックスも社会性の中でなあなあと希釈されたかもしれない。(それはそれで問題なのだが)
 しかし人一倍真面目な彼らの回りを他者は遠巻きに迂回した結果、息子(比喩)しか話し相手がいなくなってしまったのではないか。
 その孤独の陰は、同僚の冗談をライフワークに発展させたシッギ館長や、老いてなおデートを楽しんでいたアラソン氏の明るさと対になるものだ。
 トム氏とヨハンソン氏が我々に(反面教師的に)教えてくれることは簡単なことかもしれない。
「ペニスとはオスが持つ器官の一種に過ぎない」
 呆れるほど当たり前の事だが、担う役割さえ違え爪や鼻毛と同様の存在に、何の疑念も抱かずプライドや生存価値を託してしまう男のなんと多いことか。
 そしてここにペニス博物館の意義の一端があるのではないか。
「様々な動物が共通して持っている、大きかったり小さかったり、長かったり短かったり、尖っていたり丸かったりするペニスは、あなたの魅力を支える大黒柱でも、人生を照らす道しるべでも、気前よくコスプレしてくれる友人でもない。他ならぬあなた自身の一部なのだ」
 自分らしく生きたいのなら、形の無い「男らしさ」に意思を左右されるのではなく、ペニスを自分のモノとして社会から取り返す必要がある。
 この作品は、そのような切実なメッセージを長閑さとユーモアに包んで、我々に教えてくれる。
 ある意味では、トム氏は正しかった。本作は「他人の魔羅見て我が魔羅見直す」(比喩)、映画なのである。
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『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』ネタバレ全開レビュー 飛べ、ファルコン! [レビューなど]

 タイトルと矛盾しますが、ウィンター・ソルジャー抜きで所感を述べていきます。
 だって、彼よりファルコンの方が格好いいんだもん!
 ネタバレ全開ですので、続きを読みたい方はそのつもりで是非♪

続きはこちら


『ウルフ・オブ・ウォールストリート』 マネーカルトの真の罪 [レビューなど]

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は詐欺すれすれの手法でウオール街に殴り込みをかけたジョーダン・ベルフォートの自業自得というか、結果的に波瀾万丈の半生をコメディータッチで描いた映画です。

 ウォール街の名門証券会社でキャリアをスタートさせた彼が「ブラック・マンデー」により零落し、田舎町から育て上げた証券会社「ストラットン・オークモント」のエピソードが凄い。
 上場記念パーティーの余興としてオフィスにストリッパーを呼んだり、身体障害者を的に投げつけ、オフィスラブなどはおおっぴら。トイレでのセックス禁止令が出たとか、エレベーターの中で尺八(比喩)とか…。
 オフィスじゅうの同僚と同衾していた女性社員を、それと知らず結婚してしまった男性社員がその後自殺したという逸話は本当なのだろうか…?

 ともあれ、ベルフォート自身のオーバードーズまで笑いのめしているワル乗り全開の本作で最も笑ったのは「ベニハナ」の場面です。
 一流企業の株を買わせて信頼関係を作った後で「ペニー株」(将来性のまるでない地方の中小企業を扱う『クズ』株)を大量に買わせる手口と、平素から社の上層部はドラッグ常習者という事もあってストラットン・オークモントは当然当局に目を付けらます。ベルフォートがFBIに拘引されるきっかけになったのが「日本料理店」ベニハナ会長ロッキー青木のインサイダー事件に絡む麻薬取引疑惑。
 全く身に覚えのない彼はモノローグで、
ベニハナなんか知るか!
何がベニハナだ!
ベニ!ファック!ハナ!
ベニ!ファック!ハナ!
 と凄い剣幕で罵ります。(つまり、主演のレオナルド・ディカプリオが全力で)
 ちなみにわざわざ括弧を付けて「日本料理店」としたのは、店の様子がどう見ても日本料理じゃないから。
 大きな鉄板焼きを前にしたシェフがタマネギをフランベしたり、リズミカルに包丁を叩きながらステーキを切り分けたり、これって那覇国際通りのステーキ屋じゃねえか!日本国内の一部で観光的に行われてる調理法だよ!
 アメリカ人だって、アーミッシュの生活様式を一般的アメリカ人のライフスタイルだと言われたら笑い飛ばすと思うのですが。(もちろんこちらは観光用ではありません)
 いわば知ったこっちゃない珍妙なジャポニズムがそれを重宝していた当人に「ファック!」とか罵られてるのは、日本人としてはかなり面白い。

 しかしここは思いの外深い描写なのだと気付きました。

 序盤、ベルフォートは田舎町で「セールスマン」(全員マリファナの売人)を集めてペニー株を扱う証券会社を立ち上げるのですが、彼らを集めて仕事の説明をするのに一苦労。
「アーミッシュにも売ったぜ!」
 と粋がる男の、アーミッシュに対する差別的見識を共有できる「セールスマン」たちは皆笑うのですが、ベルフォートはどこが面白いのか理解できない。住む世界が違うのですね。
 論理的思考を習得させるべく、彼は一つのテストを行います。懐から何の変哲もないペンを取り出し、
「これを私に売ってみろ」
 と問います。
 唐突な問いに彼らは戸惑ういます、ボス格の売人は慌てる事もなく黙って紙を放って寄越します。
「これだ!彼は売買の必要性を作った」

 その後、富裕層にペニー株を売りつける上記の営業方針を社員となった彼らに説明する際に、
「貧乏な客からチマチマ巻き上げるより、金持ちからでっかく分捕るほうがいい。電話口で私の言うとおり話せば、君たちは白鯨を釣り上げるエイハブ船長になれる」
 という例えを持ち出します。
 学のない彼らが『白鯨』など知らない事を承知の上で。
 一事が万事この通り、ベルフォートも「セールスマン」たちも、後にウォール街に居を構えた「ストラットン・オークモント」の社員達も、顧客を同じ人間ではなく単なる金づると見なしています。また、
「成功する気のない負け犬は一生マクドナルドで働いてろ!そこがお前らの居場所だ!」
 というベルフォートのスピーチにやんやの喝采を送る。
 かつて映像が流出したライブドアの忘年会にも通じるシーンであり、まったくもって鼻持ちならない連中ですが、その底には深刻な差別意識が根を張っています。
 自分達の仲間と価値を置く世界以外に対する蔑視は、そのお仲間の間抜けさと価値観の狭さによってコメディーの色を濃くしています。
  
 『白鯨』の粗筋さえ知らない無学をあざ笑うベルフォート自身も「ベニハナ」を日本料理だと思っている。
 自分の守備範囲以外に対する認識はそんなもので、そんな事を知ったところで一銭の得にもならない。性欲、金銭欲、勝利に対する欲望、これら以外の事についてベルフォートは無視を通り越して意識すらしていません。
 あまりに即物的な欲求に忠実な行動様式は、そうでない者からは原理主義を盲進する信者のそれに映ります。
「一銭の得にもならない事には価値を置かない」
 などはまさに市場「原理」主義の副産物、というか副作用と言えましょう。
 ベルフォートは自分を駆り立てる欲求をコントロール出来ぬまま市場原理主義と最終的に相克する「国家権力」によって絡め取られ、服役します。
 そして出所した後ニュージーランドに招かれ、セミナー講演の壇上でかつてと同じ質問を参加者に発します。
「このペンを私に売ってみなさい」
 それはどこか教祖サマの問いかけに似ています。
 この作品は金儲け(当事者は必ず『稼ぐ』という表現を使う。必ず)を、至上の原理を奉じる妄信的宗教的行為(=マネーカルト)として描き出しているように思えてなりません。

 自分は、蓮華座を組みヘッドギアを付けて「修行するぞ!」と連呼しながらぴょんぴょん跳ね回るオウム信者をテレビで見てゲラゲラ笑った世代ですが、狂信者の無自覚な奇行というのは傍から見てたいへんに面白い。(キモいけど)
 原理主義的妄説に惑わされた人々の滑稽な行為といえば「モンキー裁判」(スコープス裁判)というのがありましてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96%E8%A3%81%E5%88%A4、モンキー裁判といえば『風の遺産』という名作映画がございます。
 聖書の記述を一言一句信奉するキリスト教原理主義者の
「聖書には人間は人間として創られたと書いてある!だから考える事は神に対する冒涜だ!」
 という言い草に対して、弁護士はこう反論します。
「ならばなぜ神は人間に考える力を与えたのだ!」

 神に与えられたかはともかく、人間には自由に考える力と権利があります。
 それは誰かが言った、どっかでのみ重宝される「原理」に囚われず、自分自身が認識できる世界を自由に、限りなく拡げる力です。
 ジョーダン・ベルフォートの罪とは詐欺、インサイダー取引、株価操作などの違法行為に留まらず、自らの信奉する「原理」にそぐわぬ世界に対する蔑視があるのではないでしょうか。
 それは途方もない傲慢であり、裁くべき法のない罪科でもあり、堀江貴文ら「成功者」の言動の端々から臭ってくる、どこか切迫した差別意識にも通じているようです。
 その意味では、信頼関係という商取引の前提さえ食い潰す行き過ぎた市場原理主義は、差別意識に支えられた反近代的な破壊的思想とも言えるのではないでしょうか。
 それこそがマネーカルトの真の罪なのだと思います。
 
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『風立ちぬ』所感(ネタバレあります) [レビューなど]

 観た人の混乱ぶりを横目に気になってはいたものの、宮崎駿の「長編引退宣言」を受けてようやく観てきました。
 これは…額面通りに受け取れない作品だと思った次第です。
 以降は未見の人に対する紹介と言うより、既に観た人への感想です。

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『スカイフォール』 母国への眼差し(ネタバレ注意!) [レビューなど]

 
 007生誕50周年記念作となる本作のテーマは、ズバリ「007とは何か」だった。
 冒頭で、本部の過酷とも思える指令によって味方に誤射され、生死の境をさまよった末に姿を隠した007。それでも彼はMI6が攻撃されたことを知り、ロンドンへ帰還する。
 観る側の感覚としては、臍を曲げてもおかしくない程の仕打ちを受けたと思えるのだが、彼は黙々とエージェント復帰試験を受ける。
 試験の結果はボロボロで、失態を繰り返したMに対する政府のお目付役、マロリーは彼の能力を疑問視する。しかしM自身はその懸念を何故か一蹴する。
 これらの疑問が、テーマへの伏線となっていく。

 007の存在を際立たせる悪役として、元MI6の凄腕エージェントにして世界的陰謀組織の親玉、シルバが登場する。
「007。君はかつてのわたしの足元にも及ばない」
 社会不安を引き起こす陰謀を玩具を弄ぶように語り、心変わりした愛人を玩具を投げ捨てるようにあっさりと撃ち殺す彼は、Mを「ママ」と呼び、彼女に「裏切られた」ことを深く恨んでいた。
 Mによれば、彼は任務を個人的な功名心から逸脱して、他のエージェントを危機にさらしたため、敵方に身柄を引き渡したという。その結果、シルバは機密情報を聞き出すため拷問を受け続けた末に毒物カプセルをかみ砕いて自殺を図り、だが死にきれずに全身が焼けただれた。
「彼一人で6人のエージェントが助かったわ」とMは言う。
 
 一度はシルバに囚われた007だったが、小型無線機で応援を得てシルバをMI6本部へ連行する。
 しかしそれすら計画に組み込んでいたシルバは、MI6本部のコンピューターシステムをかく乱し、隙を見て地下通路から脱出。
 小型無線機で通路を爆破、地下鉄事故を誘発して007を引き離し、格の違いを見せつける。
 NATOエージェントの個人情報を奪取された責任を問われ、政府の公聴会で審問を受けていたMを公衆の面前で殺害すべく、警官に偽装して会場へ向かう。そこのガードマン達を一欠片の感情も交えずに射殺していくシルバたち。
 しかし、追いついた007や、公聴会に同席していたマロリーらの必死の応戦により計画は未遂に終わる。

  それでもNATO工作員の生命が危機にさらされている現状は変わらない。
 007はシルバとの決着を付けるべく、政府には秘密裏に行動を開始する。スコットランドの荒野にぽつんと聳える自らの生家「スカイフォール」に初代ボンドカーでMを誘い、屋敷の番人キンケイドと共に手作りの武器で迎え撃つのだ。
 なお、キンケイドはMと旧知のようで彼女を「エマ」と本名で呼ぶ。また、彼はボンドの少年時代を知る人物。戸外の礼拝堂へ通じる地下通路をMに紹介しつつ、
「両親の死を知ったとき、ジェームズは2日ここに籠もって出てこなかった。出てきたとき、もう子どもではなくなっていた」
 と語る。
 その前にMが「諜報員には孤児が向いているわ」と語るくだりがあり、シルバもまた孤児であったことが示唆されている。
 
「特攻野郎Aチーム」ばりの手作り戦闘が、闇と焔、静寂と爆音のコントラストが際立つ映像で展開する。
 007が爆破した屋敷を後にキンケイドとMは礼拝堂に逃げ込むものの、シルバに追いつかれてしまう。
 シルバは手負いのMを狂乱しながらも気遣い、抱き寄せる。「ママ、一緒に死のう」と互いの頭部を撃ち抜こうと引き金を描けた瞬間、007の投げたナイフによって彼は斃れる。
 そしてMもまた息を引き取る。

 ラスト。
 公聴会の銃撃戦で受けた傷の癒えぬマロリーが007に指令を下す。
「わかりました。M」
 と受諾して物語は終わる。

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 シルバとは、どのような人間だったのか整理してみる。
 彼は大英帝国に忠誠を尽くす工作員だったが、それは「ママ」と呼ぶMへの依存の形をとっていた。母に褒められたいが為に任務の意図を先回りして独断で暴走し、職務上の当然の処置として切り捨てられた。彼にとっては母親に裏切られた時点で国家だの任務だのといった社会ルールを守る必然性は雲散霧消し、自らの幼児性に依拠した破壊活動を繰り返すようになった。
 その母性への渇望は、彼自身が孤児だったからかもしれない。彼にとって国の関係は、家庭内における親と子の関係であった。

 翻って007はどうか。
 Mを上司として「M」と呼び続け、自宅に勝手に上がり込んで傲岸とも言える態度で復帰を継げ、例え自分が裏切られても、そのことでMを責め立てたりはしない。
 彼にとって「M」とは「Man」(人間)以上でも以下でもないのだ。だからマロリーが新たな「M」となってもすんなりと受け入れる。
 また、彼は殺人のライセンスを所持しながら、それを無関係の人間に行使するようなことはしない。
 シルバと同じ孤児でありながら彼は「もう子どもではなくなっていた」のだ。
 彼と国の関係は、成熟した大人同士の社会契約であった。
  このような資質こそが、エージェントにとって最も大切な要件であることを、Mは誰よりも深く理解していた。だからこそ、本来ならパスする筈のない成績だった007の復帰を許可したのである。
 結局、能力的に優れたシルバと、彼には及ばない007の違いは「子どもか大人か」に収斂していく。
 
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 物語のまとめとしてはこれでおしまいだが、現実の我々が「母国」に思いを致す際、果たして「大人」だろうか?
 前作『慰めの報酬』における007のように母国さえ向こうに回して単独で戦うとまではいかなくても、国の名の下に行使される理不尽に対してその正否を自身で判断して些細な意思表示さえ行うことが出来るだろうか?
 我々は、時の政府にとって便利なだけの「扱いやすい子ども」になってはいないだろうか?
 憲法の理念をねじ曲げ、人権を制限すべく政府の権限を拡大しようと目論む政府が国民的支持を得ている極東の島国で『スカイフォール』を観終えたとき、作品のテーマが画面からこぼれ落ちてくるような気がしてならない。
 

『時刻表2万キロ』 [レビューなど]

二十世紀の国鉄完乗者

時刻表を眺めながら車窓を夢見るサラリーマンが、乗り残した国鉄全線を完乗すべく奔走した、仕事の合間の鉄道旅行記。
時刻表を熟読し、到着時刻から逆算して表記の裏に隠された乗り換えを達成したり、急行を追い抜く鈍行を見つけて悦に入ったり。しかしそうそう記述通りにはいかず、事故や寝坊や深酒でしばしば予定は狂い、果ては列車をタクシーで追いかけたり…。

鉄道とは移動手段にすぎないから、「乗る」ことを目的とするのはたいそう大人気ないとされている。ましてや、子供が好む物件だから尚更だ。巻末に纏められた書評各種も「馬鹿馬鹿しい」という前提は共通しており、著者本人も内心のこだわりや感動が露見しないように心を砕いている。その、時に涙ぐましい努力がまた、結果としてユーモラスなのだが。
裏を返せば、このような「純然たる趣味」としか申し開きのしようのない行為に、「お目こぼし」さえしてみせるような、厳格で分相応の「大人の分別」が存在していたのだ。この秘めやかな旅が遂行されていたのは1970年代半ば。現在「人に迷惑かけなきゃ何やってもいい」という一見寛大そうでその実酷薄なスタンスが定着して久しいが、良し悪しは別として時の流れを痛感する。
もちろん、作品の内容そのものも古典と化している。 最後は新線の開通していく様を、豊かな成長を示唆する園芸家の文を援用して「線路は続くよどこまでも」といったニュアンスで締めくくっているが、 著者が苦心してプランを練り乗りこなしたローカル線は、国鉄の分割民営化を経てその過半は姿を消した。つまり、本書は国家的に成長期の文学と言えるだろう。
放漫経営を指摘されていた鉄道事業さえ国家の成長に組み込まれていた。当時の国債残高は15兆円。それが、709兆円となった現在、新線として話題に上るのは長崎や金沢へ向かう整備新幹線だろうか。この一事をもってしても、隔世の感がある。
そして「海岸に見事な松林のある陸前高田のあたり」といった記述や、気仙沼線の開通を街を挙げて祝う住民の姿に至っては、虚ろな感慨を抱かざるを得ない。

著者の宮脇俊三は当時、『中央公論』の編集長。厳しい審美眼のフィルターを通した簡潔な文章からは時に格調すら漂い、行間から豊かな感性が垣間見える。
しかしこれまた作品の完成度とは別に功罪を生み出したと思う。ある程度社会的地位を備えた人物がこんな馬鹿馬鹿しいことをやらかしていた事実は話題性にもなったが、内容にそぐわぬ高尚さは以後鉄道ファンに対する誤解を生んだと思える。
今なお鉄道趣味にはシャイでおとなしい正気の大人の趣味というイメージがあるが、群れたがり群れたら騒ぎ分不相応にモテたがり、ヘッドマークを盗む者やイベントで一般客を押し退ける輩もいる。つまり、その他の趣味とたいして変わらない。本作からマニアにありがちな自慢の臭いがしないのは、ひとえに著者自身の人格に因っている。
「鉄道文学」の重要作にして鉄道趣味の伝導書である本書の完成度は、さろそろ日本経済に余裕が出てきた発表年代と相俟って、それほどの影響力を持ち得た。

デビュー作にして金字塔。
第5回日本ノンフィクション賞の選考にあたって「今後、ノンフィクションの世界にその領域での新たな展開すら予想できた」と述べた吉村昭は慧眼だろう。
(敬称略)
時刻表2万キロ (角川文庫 (5904))

時刻表2万キロ (角川文庫 (5904))

  • 作者: 宮脇 俊三
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1984/11
  • メディア: 文庫



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『おおかみこどもの雨と雪』及び細田守考(続) [レビューなど]

「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」のポッドキャスト「細田守監督と邦画を語る」を聴いた。(以下敬称略)
『台風クラブ』『マルサの女』など、80年代の邦画の中から細田監督が選んだ5本について宇多丸と盛り上がるのだが、それらの作品を知らないと全くついていけない。
「あれ、いいよね」「ああいうのやりたいんだよね」
「わかるわかる~」
といった、リスナー置き去り対談の中から、ここぞという要素をパーソナリティー宇多丸がすかさずピックアップして『おおかみこどもの雨と雪』に結び付ける。

後半ではその『おおかみこどもの雨と雪』の中で宇多丸が疑問点を尋ねるのだが、案の定答えに窮する細田監督。
そうだろうなあ。「ああいうの」を「やってみたかった」だけなんだろうから。
例えば、
「なぜ、おおかみおとこは獣の姿のままで花とセックスしたのか」
については、散々考えあぐねた後で、
「あの場面を省略するという意見は現場でもあったが、種を飛び越えて共に暮らしていく彼らの結び付きを、言葉に頼らないで描いてみたかった。それがそのあとの花の覚悟に繋がっていくんじゃないかと」
とのこと。
なるほど。作り手としてはそうかもしれないけど、見てる側としてはよく意味がわからなかった。
「言葉なんて信用できないから」
とも言っていたが、そう言いきるにはまだ力量不足なのではないだろうか。
因みに自分はこのシーンには別の意味に捉えていた。
つまり、おおかみのちんこに合う避妊具が無かったので、図らずも花が妊娠してしまったのではないか、というもの。
現実問題として、異種形態の交合の結果としてしなくてもいい苦労を背負うことになったんじゃなかろうか、と。
そもそも、人目を避けて暮らしたいのなら、田舎で子供作れよ。(細田監督は『都会の片隅で暮らす彼らの姿を描きたかった』とも言っている)
本作の主人公夫婦の行き当たりばったり加減には目に余るものがあるが、細田監督の「ああいうのがやりたかった」に起因していとしたら、真面目に批判するだけ無駄である。

先の記事で、自分は細田監督の「公共性を持った、現実に対して肯定的な作品を作る」といった矜持を「技術者のようだ」と述べた。
ひとつの例として、自分の父親は理系の技術者だったのだが、自分の仕事を他人に上手に説明することができない。自分の仕事と社会の接点について、考えたことも、その必要性を認識したことすらないようだ。
だから自分は、彼が何をやっていたのか未だによく分からない。
要求されたことをきちんと遂行出来ていればそれでよしとする閉鎖性は、世間ではさほど珍しくない。文句も出ないならいいだろう、と。
しかしそれは自己主張の欠如、不全だと思う。きちんと自分の言葉を、時間をかけて紡がなければ、大切なことは伝わらない。
それは言葉を信じる信じない以前の、コミュニケーションに対する誠意だと思う。
「こんなに大きくなりました」と子供の写真を載せた葉書。
「俺はこんなに苦労した。だから俺の言うことを聞け」という説教。
「こんなに努力したのに報われない」という泣き言。
これら知ったこっちゃない「表現」と本作の、
「やりたいからやりました」 「後は察してよ」
というスタンスは、本質的に似ているように思える。
いや、上の三つの例えはまだ社交辞令の範疇で笑ってやり過ごせるが、有料作品としてそれをやられても、反応の仕様がない。
こちらがお金を払っているのに、なぜわざわざ制作者の意図を汲んでやらなければいけないのか?
それはつまり「リアリティライン」の設定が出来ていないということであって、どこまでをホームドラマとして、どこからをおとぎ話としてとらえればいいか、細田監督にも明確な答えを用意できていないのである。(とはいえ、この手の未熟さは邦画には珍しくない)

では、『おおかみこどもの雨と雪』においてどのような制作スタンスが望ましいのか?
観る側の「公共性」を期待して世界の美しさを訴えたいなら、きれいな絵を見せて「ほら、世界は美しい」じゃダメで、「それでも、世界は美しい」でなければいけない。
何故なら、世界は既に汚れており、さらに自分もまた汚染に荷担しているからである。
「現実を肯定する」作品を提示したいなら、作り手自身が無邪気に現実を肯定していたらお話にならない。
「僕が考えたセカイ」を、受け手の良心を期待して提示するのは、虫が良すぎやしないか。
そのような認識で作られた作品に対して、受け手には追認するか、弾かれるかの選択肢しか残されていない。
本作の気持ち悪さは、恐らくファンと作り手が無批判に形成する閉鎖性、共感の独占から来ているのではないか。
外部から見た荒○座の演劇、○福の科学のアニメ、○教新聞の4コママンガ、そういったものに通じる気味の悪さである。
自分の持つ公共性への無自覚によって、作品そのものの公共性を損なっているように思えてならない。

細田監督は、いつか徹底的なエゴイズムと自分の言葉でとびきりのフィクションを完結させてほしい。
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『おおかみこどもの雨と雪』及び細田守考 [レビューなど]

昨日観た『おおかみこどもの雨と雪』を扱ったシネマハスラーのポッドキャストを聴いた。(以下敬称略)
リスナーの評価は7(賛)3(否定)ぐらいで、好評不評は極端に分かれたらしい。
宇多丸はほぼ全肯定的な評価で、特にアニメーションならではの長いスパンの成長の描写と、きめ細かいディテールを賞賛していた。
肯定派の評価ポイントは、
「絵がきれい」
「きめ細かなディテールが豊かな奥行きを感じさせる」
「主人公に共感し、感動した」
等々。
かたや否定派のマイナスポイントは、
「物語がご都合主義」
「主人公(母親)が完璧すぎ」
「物語が説明不足」
等々。

自分は否定派に入る。
確かに本作はこの尺のアニメとして良くできていると思う。
絵の美しさ、おおかみこどもの可愛らしさ、四足歩行の動物視点での疾走描写、台詞以外で情報を提示する手際のよさ、日常的なアクションの自然さ、声優陣の好演…どれもアニメとしてかなりの出来映えであり、否定派の舌鋒が鋭くなるのも、この完成度の高さを反映しているようだ。
しかし、それらは「器」である。
どんなジャンルであろうと、最終的に問われるべきは料理(内容)であって器ではない。
自分は本作を見終わってほとんど感情が動かず、確かな技術で作られた精巧な器としか感じられなかった。
物語として奥行きがないとは思わない。しかし主題に柱がないのだ。作劇として必須の背骨が感じられない。

否定派の「ご都合主義」「母親が完璧すぎて鼻につく」といった意見を、宇多丸はたしなめる。
母親が移住先の村で受け入れられる段階も、彼女が周囲の理解など得られようのない子育ての中でも病んでいる場面もきちんと描かれていると。
本作は言葉によらず、絵の中で説明がなされる作品であり、アニメでは珍しい引きのショットも目立つ。
確かに自分も視覚的な気配りは感じたつもりだが、それでも説明不足との感を拭えなかった。その理由をこれから述べる。

本作の粗筋を知り、観終わってより明瞭に共通点を意識した作品がある。『誰も知らない』『空気人形』などの是枝裕和の監督デビュー作品にして江角マキコの映画デビュー作品、『幻の光』である。
粗筋としては、二人めの子供が生まれたばかりの状況で夫が原因不明の死を遂げ、残された母親は能登の漁村へ嫁いでいく。そして時が流れ…というもの。
台詞は少なく、色と光の抑えられた静かな場面が続く。
『おおかみこどもの雨と雪』のオフィシャルブックの貞本義行(キャラクターデザイン)のインタビューによれば、本作の設定と家族構成を描くにあたってこの『幻の光』を意識したそうだ。
また宇多丸は「引きの画」の多用など画面構成の類似点にも触れている。
さて、このように共通点の多い両作品だが、同様に配置されたラストのクライマックスを経た観賞後の感覚は大分違った。(当然、これは自分の所感にすぎないが)
『幻の光』のネタバレになるが、優しい人々に囲まれた穏やかな暮らしの中でも主人公は亡き夫の面影を忘れられない。日々の暮らしのなかで一人になったとき、ふっと不安げに遠くを観るような仕草をする。
死因が判らないので「ひょっとしたら彼は、自分との生活から逃げるために自殺のかもしれない」という疑念から、自分が幸福だと感じていた日々に確信が持てず、故に現在の幸福に対しても及び腰になっている。
ラストで彼女は現在の夫に対して「こんな自分に愛される資格はない」と言って泣く。
しかし夫は、そんな彼女の葛藤に気付いていた。その上で「それでもそんな君を愛している」と告げる。
それまで朴咄と描かれていた夫の、秘めていた深い愛情が最後に明かされる。

翻って『おおかみこどもの雨と雪』でもクライマックスで母親は自分の心中を印象深い言葉で吐露する。しかし、伏線も取っ掛かりもないので、観る側としてはやや面喰らってしまう。
終盤で唐突に炸裂する、彼女の子供への執着を裏付けるものが提示されないので、その心情は観ている側で埋め合わせるしかない。
それが「母性本能」とか「子供を育てればわかる」とか「言葉にするようなものじゃない」では、それはあまりに無責任じゃなかろうか。
この作品は一事が万事この調子、といって良い。作中で出現する「父親はどうして死んだのか」「どうして地元住民と仲良くなれたのか」「なぜ狼は人間から嫌われるのか」といった疑問に対して答えは示されない。「でも、現実ってそういうもんでしょ?」というのがこの作品にとっての正答なのかもしれない。

細田守の前作『サマーウォーズ』は、「なんだか判らないけどとにかくすごい大家族が、身から出た錆として発生したよく判らない仮想世界の危機を、団結の結果なのかよく判らない経過を経て救う」というわかったような判らないような話だった。
予め「あるべき大家族」「よくある感じの仮想世界」というお約束の上でハイテンションに物語が進行していくので、それらのフォーマットに適合できないと観ていて苛立ちがつのった。
本作でもその基部構造は継承されており「あるべき母親像」「あるべき幸福像」「あるべき社会像」の上で、それら前提への疑問を遮断したまま物語は美しい絵とともに滑走していく。
そこには「作り手がどうしても訴えたいこと」は感じられない。「そういうお話」なので感動のしようがない。
「器のみ」「骨格がない」「説明不足」と思う所以である。
そのような、言わば「借り物作劇」の上滑りぶりは、言葉による説明を省いている分、前作より悪化している。
この種のテストのような作品は、前提に同調できない者にとっては大変居心地が悪い。
しかもテーマが「家族」や「親子の情」といった逃げ場のない普遍性である場合、逆に感動できない方が後ろめたさを感じてしまう。

宇多丸は、
「公共のためになる作品を作るのが自分のモットーである」
という細田の心構えを称賛する。
細田作品に対し強い拒否反応を示しがちな否定派の心情を
「細田の作風である健全さ、世界への肯定感への反発ではないか」
と仮定した上で、
「でも、そんなに世界を肯定的に描くのって悪いか?」
と問う。
ならば、借り物の道徳観念を示唆するのではなく、自分が強調したい「大切なこと」を自分の言葉できちんと提示すべきではないか。
そもそも細田の「心構え」とは、映画監督というよりは職人、いや技術者のそれではないのか。
つまり「公共」の形が変われば、作品の主題も変わるわけだ。それはもはや主体性を持った個人の表現活動とは呼べまい。
表現活動云々に限らず、知らず知らずのうちに悪意に荷担したくなかったら、また本作の主人公のように大切な人を守りたかったら、「健全」だの「公共のため」だのといった言葉は真っ先に疑った方がいいと思う。

細田作品への拒否反応とは、提示された主題への好き嫌いといった嗜好ではなく、このような「あるべきもの」を前提とした表現から漂う同調圧力を気持ち悪いと感じるかどうかの違いであろう。
この手の作品がよく判らないまま持て囃され、細田が「日本を代表するアニメ監督」とされている現状そのものを、自分は気持ち悪いと感じる。
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『メランコリア』ネタバレ全開評~正しい世界の終わりかた [レビューなど]

ラース・フォン・トリアー。
気が滅入るような作品を撮らせたら天下一品と言われているデンマークの映画監督です。
実際、話題になった『ドッグウィル』、『アンチクライスト』のあらすじを知っただけで観にいく気が失せます。
しかし、そんな予備知識のないうちに、予告編を頼りに観た『メランコリア』は大変気に入りましたよ。
この作品はイカれた妹ジャスティンの結婚式を描いた前半部と、天体の異常接近に怯えるまともな姉クレアを描いた後半部に分かれております。
結婚式と天体衝突?これがシームレスに繋がるのですね。天体に名付けられた「メランコリア」(鬱)という一点において。


のっけから田舎道には適さない長大なリムジンで自分達の結婚式に大遅刻するバカップル。
壮麗なウェディングドレスを纏った巨乳パツキン姉ちゃんが、「スパイダーマン」シリーズのヒロインとして不評を浴びたキルスティン・ダンスト演じる妹、ジャスティン。
彼女をカリカリしながら迎えるのは式場である城郭ホテルのオーナーに嫁いだしっかり者の姉、クレア(シャルロット・ゲンスブール)。
俗物を体現したようなジャスティンの上司とその無能な甥をはじめ、散々待たされた招待客を前に彼女の暴走はエスカレート。
最初はお色直しと称してゴルフコースへ繰り出して放尿する程度でしたが、次第に非道の質は悪ふざけから病的な奇行へと様変わりしていきます。表情もいたずらっぽい笑顔から次第に陰欝に、眼差しは虚ろに変化していきます。
姉妹の両親は離婚しており、現在の妻子同伴で繰り出した父親はウェイターをからかい、不機嫌そうな母親は結婚式への悪意に満ちたスピーチで場をドン引きさせます。
クレアはそんな両親を反面教師にして成長したんだと得心する半面、じゃあジャスティンの奇行はどちらから受け継いでいるのか?という疑問が湧きます。
これはすぐに明かされるのですが、よりによってケーキ入刀の段に至って母子それぞれ湯舟に浸かっているのですね。
全てが終わってしまった後、ジャスティンが母親に会いに行くと「あいつらにはわからないわ。逃げなさい」と言われます。
父親の奇行は茶目っ気であり社会適応の一形態なのですが、母親のそれは病的な不適応なのですね。社会に適応できない(理解されない)とわかっているから結婚という社会的契約(というか制約)に我慢がならない。

この違いが理解できなかったのが、あろうことか新郎本人。ノリのいいボンボンの善人です。
目が虚ろになりはじめたジャスティンに対して一枚の写真を見せ、
「田舎の土地を買ったんだ。ここで静かに暮らそう。ほら林檎の木が綺麗だろ」
とか優しく語りかけるんですが、ジャステインは上の空。フラフラと移動した尻の下から写真が舞い落ちる始末。自分の気遣いが踏みにじられて、新郎大ショック。
しかしこれは悪意ではありません。症状です。
傍目には理解しがたいジャスティンの変容は、躁から鬱への転換なのだそうです。言われてみれば病気としか思えませんが、実際目の当たりにしたら、あまりの理不尽に腹を立てるでしょうが。
善人たる新郎はそこが理解できず、鬱状態の彼女に善意の見返り、つまり感謝を求めてしまいます。あーそれ誤解だから。
そのあとクレアに慰められた新郎は気を取り直して、すわ初夜!というところまで行きますが気乗りのしないジャスティンはすげなく拒否。
彼女はこともあろうに上司の甥とゴルフコースで交尾に及びます。は~♪騎乗位騎乗位。
その帰りに、俗物上司に捕まり、
「やあ。いい商品コピーは浮かんだかい?」
などと空気読まない無神経発言を受けて、公衆の面前で罵倒します。
逆ギレした上司はクビを言い渡して帰宅。
ホテルへ戻ると、しょげ返った新郎に破談を申し渡され、思い上がった上司甥に言い寄られますがもちろん拒否。でもこれ、普通はヤリ捨てって言いますがな。
一貫して花嫁衣装を纏ったキルスティン・ダンストによる理不尽な、病的な、そしてエロい振る舞いは落着し、観賞している側として苛立ちに満ちた前半部はようやく終了します。


後半はクレア夫婦が暮らす城郭ホテルにジャスティンがやってくるところから始まります。
明らかに症状は悪化しており、タクシーにも乗るのもおぼつかず、一人でも入浴もできない有様。(おっぱい)
折しも水色の美しい惑星(?)「メランコリア」が異常接近しつつあり、レジャーどころではない世相の中で宿泊客も皆無。
クレアの旦那は息子と一緒に趣味の天体観測三昧。こいつもビビりで小物で凝り性で、典型的なボンボン体質の俗物です。演じるのはなんと「24」シリーズのキーファー・サザーランド。
浮かれる男どもをよそに、一人天体衝突に怯えるクレア。旦那は「ぶつからないyo!」と言われてますが気が気じゃありません。
一方、ジャスティンは姉の苦悩が深まるほど、何故か生気を取り戻していきます。月がふたつ浮かんだような明る過ぎる夜には、河原で全裸月(&メランコリア)光浴!(おっぱい)
そして暗くも正しい眼光を宿した彼女は落ち着き払って「もう誰も助からない」と断言します。躍起になって打ち消す姉に対し、異能の一端を示して見せます。
つまり、彼女は(恐らく母親譲りの)シャーマン体質だから常人とは違う感覚に秀でているが、理解されず社会一般から障害者として扱われていたわけなのですね。
でもまあ、これは物語ならではのご都合主義でして、「自分はあいつらとは違う。特別なんだ」といったメンヘラ妄想の結晶ですね。それを言ったらこの後半そのものが妄想的ですが。
そんな身勝手で未熟な妄想に感情移入できる人(例えばわたくし)にとって、本作は理想的に展開していきます。
常軌を逸した人物による妙にリアルな話から、堅物が怯えるファンタジックな話へ、前後半で鮮明なコントラスト。異常事態によって姉妹の力関係が逆転し、世界の秩序も転変していきますが、実はひとつだけ変わらない関係性があります。
それはジャスティンと、その甥にあたるクレアの息子の関係です。彼は何故か叔母を「強くて頼りになる」と慕っています。
それは多分、彼女が彼の両親の手を焼かせてばかりだからなのでしょうが、子供の目からはジャスティンの何処がおかしいのかわからない。
障害とは本来、社会的な優劣ではなく生理的な違いです。社会を知らない子供にとって、単なる差異はどこまでもフラットです。

やがて一度は遠ざかった「メランコリア」は最接近し、絶望の中で旦那は厩で猟銃自殺。
前半部の推進力がメンヘラの無軌道だとしたら、後半の推進力は天体の軌道です。
その軌道に一喜一憂し、やがて錯乱していく姉を、悟りに満ちた所作で気遣うジャスティン。
自分を理解できない世界が、とびっきり美しい災厄でもって勝手に滅んでくれる。
資産が莫大な人ほど、家族への愛が深い人ほどうろたえ、怯え、絶望していく。
ましてや、自分を世話する立場であった肉親が子供のように震えているのです。
こりゃ女神の如く慈悲深く、女神の如く寛大に、女神の如く腹黒く振る舞うしかないでしょう!

例えば、社会参加意識も社会的地位も持ち合わせていない自分などは、自業自得から来るルサンチマンだけは人並みに抱え込んで、普段はそれなりに押し殺しています。
これは本当に不謹慎ですし、無神経なのですが、去年の3月11日に帰宅難民の列に混ざって歩いているときワクワクしてしょうがなかったもんね。
ツンと取り澄ましたクソったれの日常に気前よく亀裂が走って、老いも若きも男も女も金持ちも貧乏人も、みーんなバカみたいに歩いている。
究極の平等は死だ、という身も蓋も無い真理に似たどこまでも後ろ向きで非生産的な快楽です。(うわ最低)
そんな浮かれも名取市を襲った津波の映像を見て世界の重さをまともに喰らい、いっぺんに覚めてしまうんですが。(ついでに翌日の原発大爆発で、めでたく怯える群集の仲間入り)

場違いな落ち着きを保つジャスティンが責められずに済むのは、どうせみんな死んじゃうからに他なりません。
ここで母親が言った「あいつらから逃げなさい」という台詞が思い出されます。
もう、逃げる必要はないんです。お迎えの方からやって来て、みんな死ぬんです。自分だけが心安らかに!たっはー!
傍らには自分を慕ってくれた人と、自分より常に上位にいた人。俗物は既に惨めに滅びました。
3人で手を繋いだまま美しい光りと轟音に包まれて粉みじんに果てていく。
これはなんという幸福なのでしょう。(実際に監督は「この結末はハッピーエンドだ」と述べています)
所詮、幸不幸とは誰かを見下したり、誰かを嫉んだりする相対性の中に揺らぐ軽薄な概念にすぎません。
みんなの幸福が自分にとっての呪いなら、みんなへの呪いが自分にとっての幸福さ!それのどこが悪い!
…性質が悪い(笑)
このラストシーンは奇妙な高揚感とカタルシスに満ちており、なるたけ音響がよく、でっかいスクリーンの間近で観賞することをお勧めします。

「あたりまえ」の社会に馴染めないまま自意識の在りかに悩む、精神を病みめの人にとっての最大幻想一発逆転映画なのですね。
確かに暴力描写は皆無でほとんど血も出てこない。性描写も遠目に一回だけ。一見、レーティング的には問題ありません。
しかし、作劇の根幹がどうしようもなく反社会的なのです。
見所は青く輝くメランコリア&終始エロいキルスティン・ダンスト。
『去年マリエンバートで』の舞台にも似た城郭ホテルは前半こそ虚飾としか思えませんでしたが、後半ではジャスティンの精神状態と歩調を合わせるように美しさを増していきます。
海の見える庭。手入れの行き届いた芝生。周囲を包み込む緑。
乗馬やゴルフも楽しめる重厚かつ開放的なホスピスで、なんと上質でラグジュアリーな処刑待ち。約束された死を待つにはうってつけの、まさに「どうせ死ぬならこんな場所」。
見目麗しく、秘めやかに破壊的。
自分にとっては居心地の良さ満点の作品でした。
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