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『おおかみこどもの雨と雪』及び細田守考(続) [レビューなど]

「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」のポッドキャスト「細田守監督と邦画を語る」を聴いた。(以下敬称略)
『台風クラブ』『マルサの女』など、80年代の邦画の中から細田監督が選んだ5本について宇多丸と盛り上がるのだが、それらの作品を知らないと全くついていけない。
「あれ、いいよね」「ああいうのやりたいんだよね」
「わかるわかる~」
といった、リスナー置き去り対談の中から、ここぞという要素をパーソナリティー宇多丸がすかさずピックアップして『おおかみこどもの雨と雪』に結び付ける。

後半ではその『おおかみこどもの雨と雪』の中で宇多丸が疑問点を尋ねるのだが、案の定答えに窮する細田監督。
そうだろうなあ。「ああいうの」を「やってみたかった」だけなんだろうから。
例えば、
「なぜ、おおかみおとこは獣の姿のままで花とセックスしたのか」
については、散々考えあぐねた後で、
「あの場面を省略するという意見は現場でもあったが、種を飛び越えて共に暮らしていく彼らの結び付きを、言葉に頼らないで描いてみたかった。それがそのあとの花の覚悟に繋がっていくんじゃないかと」
とのこと。
なるほど。作り手としてはそうかもしれないけど、見てる側としてはよく意味がわからなかった。
「言葉なんて信用できないから」
とも言っていたが、そう言いきるにはまだ力量不足なのではないだろうか。
因みに自分はこのシーンには別の意味に捉えていた。
つまり、おおかみのちんこに合う避妊具が無かったので、図らずも花が妊娠してしまったのではないか、というもの。
現実問題として、異種形態の交合の結果としてしなくてもいい苦労を背負うことになったんじゃなかろうか、と。
そもそも、人目を避けて暮らしたいのなら、田舎で子供作れよ。(細田監督は『都会の片隅で暮らす彼らの姿を描きたかった』とも言っている)
本作の主人公夫婦の行き当たりばったり加減には目に余るものがあるが、細田監督の「ああいうのがやりたかった」に起因していとしたら、真面目に批判するだけ無駄である。

先の記事で、自分は細田監督の「公共性を持った、現実に対して肯定的な作品を作る」といった矜持を「技術者のようだ」と述べた。
ひとつの例として、自分の父親は理系の技術者だったのだが、自分の仕事を他人に上手に説明することができない。自分の仕事と社会の接点について、考えたことも、その必要性を認識したことすらないようだ。
だから自分は、彼が何をやっていたのか未だによく分からない。
要求されたことをきちんと遂行出来ていればそれでよしとする閉鎖性は、世間ではさほど珍しくない。文句も出ないならいいだろう、と。
しかしそれは自己主張の欠如、不全だと思う。きちんと自分の言葉を、時間をかけて紡がなければ、大切なことは伝わらない。
それは言葉を信じる信じない以前の、コミュニケーションに対する誠意だと思う。
「こんなに大きくなりました」と子供の写真を載せた葉書。
「俺はこんなに苦労した。だから俺の言うことを聞け」という説教。
「こんなに努力したのに報われない」という泣き言。
これら知ったこっちゃない「表現」と本作の、
「やりたいからやりました」 「後は察してよ」
というスタンスは、本質的に似ているように思える。
いや、上の三つの例えはまだ社交辞令の範疇で笑ってやり過ごせるが、有料作品としてそれをやられても、反応の仕様がない。
こちらがお金を払っているのに、なぜわざわざ制作者の意図を汲んでやらなければいけないのか?
それはつまり「リアリティライン」の設定が出来ていないということであって、どこまでをホームドラマとして、どこからをおとぎ話としてとらえればいいか、細田監督にも明確な答えを用意できていないのである。(とはいえ、この手の未熟さは邦画には珍しくない)

では、『おおかみこどもの雨と雪』においてどのような制作スタンスが望ましいのか?
観る側の「公共性」を期待して世界の美しさを訴えたいなら、きれいな絵を見せて「ほら、世界は美しい」じゃダメで、「それでも、世界は美しい」でなければいけない。
何故なら、世界は既に汚れており、さらに自分もまた汚染に荷担しているからである。
「現実を肯定する」作品を提示したいなら、作り手自身が無邪気に現実を肯定していたらお話にならない。
「僕が考えたセカイ」を、受け手の良心を期待して提示するのは、虫が良すぎやしないか。
そのような認識で作られた作品に対して、受け手には追認するか、弾かれるかの選択肢しか残されていない。
本作の気持ち悪さは、恐らくファンと作り手が無批判に形成する閉鎖性、共感の独占から来ているのではないか。
外部から見た荒○座の演劇、○福の科学のアニメ、○教新聞の4コママンガ、そういったものに通じる気味の悪さである。
自分の持つ公共性への無自覚によって、作品そのものの公共性を損なっているように思えてならない。

細田監督は、いつか徹底的なエゴイズムと自分の言葉でとびきりのフィクションを完結させてほしい。
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